といってもおかしなカルトとかじゃなくて自分ペースでの発見、研究です。
仏教って宗教らしくない宗教、として
世の中のお偉い先生たちも
その神話の起源というか美しさに魅せられているみたいです。
わたしの病気が科学で解明される事がなく「もう治らない」と言われた時から
何かにすがる人たちの気持ちも凄くよくわかるようになった。
ホメオパシーやフラワーエッセンスにはまったり
ヨガやピラティス(これは科学的だけど)
にはまったり
だって感じる気持ちや聴こえる声や見える妄想をそのままに受け入れれば良いんだろうけど
現実社会が許さない訳じゃん。
治らなくても薬はのまないともっとおかしなことになる、わけですから周りにも悪いし
自分も感じることはないのに生きているだけで罪悪感に苛まれる。
治さなきゃ!自分を治す!
と言う事に反感もあった。
でも基本的に自己否定型だからやっぱり治さなければいけないもんなのだ、と思っていた。
躁鬱、非定型、と生理前症候群、どれも辛い病気で、それぞれ症状が異なりリズムもとれない。
治す、治れ、治った、とか考えてるとなんか罪人みたいなきもちになるんだ。
しかも悪いことに、死とも隣り合わせで、重度の鬱や躁の果ての場所では私はいつも「死」を体全体に感じ取り
悲しみや虚無感、虚脱感、何に対しても無反応で無感動な自分と向き合わされていた。
いや、そこにまるで自分の魂はないのに苦しんでいるような妙な感覚があった。
どうだろうか、そんな人間に
あるインチキなホメオパスは優しく言った
「あなたは病気じゃない、薬ものまなくていい」
舞い上がる自分がスキップしていた。その人が天使に見えたよ。でもその一時的な開放感はあくまで一時的であり、夕方にはすっかり
突然の薬中断の副作用や、鬱の症状が私の上に真っ黒い雲を連れて来ていた。
これじゃあ、カルトや変な健康器具とかに騙されそうな勢い。危ない所だった。もちろん
ホメオパシーにだってけっこうなお金を使ってしまったが、同じく
すがる様にして薬でない何かを求める精神病や癌の友人たちがそういったものにはまるのも見て来た。
結局みんな科学の力をかりる事になったけれども、(ホメオパシーが万人に効かないとはいわないし、好きな人はもちろん続けていいと思います、が科学治療している人は医者からでている薬を突然やめないこと!)それでもきっとまたなにかお金がかからなくていい方法があったら試すかもしれない。
何故か?だってみんな病気は治ると嬉しいでしょ?喜ぶ。親も子も。だからなんかにすがっても
治るならいいんじゃなかろうか、と思っちゃう。
でも「治らないです、上手くつき合って行きましょう」
という言い方はなかなかよくできていて
科学的なのに文学的。
上手にだよ、上手に病気とつき合える様になる、それが周りに迷惑や負担をかけないことに繋がる
すごい。科学的なのになんでこんなに共存共生という言葉を医者が使うんだろう。
釈迦みたいじゃない?
できるかできないかはいいとして、痛みを抱えて生きて行く、なんて言い方をちょっと変えたらさらに文学的!
ところで、
科学はキリスト教が生んだらしい。
私は聖書を読んで、キリストはそんなに悪いやつとも思えなかったが
宗教学者の中沢新一先生は
「十字架がいけなかったね」
といっていた。基本イスラムに置けるアッラーもキリストもブッダ(釈迦)も大元、言っていることは同じような事だったらしい。
しかしみんなブッダ以外は途中から神様になっちゃった。ブッダは人間なのに。
最も神様(偉い人)みたいなのに決して神として存在せず人間として存在し普通に死んだ釈迦はなんだか親しみやすい。
偉い人=あがめられ=偶像化され=神様〜
カリスマがかたちになっちゃうから、、、
いけないのかなあ。
まあ、話はそれたけど
科学を否定するのではなくて
何もかもと共存していったらば、
ブッダがいつも動物に囲まれていたように
穏やかになれるのかな?
音楽だけを創って
ドラえもんを描いた藤子Fさんみたいに、きたろうの水木しげるさんみたいに
たとえある程度欲があっても
好きなことできること、それだけを追究していけばなんだかまっとうでいられる気がする。
しかし老人になって死ぬとして、延命だけはしてほしくないもんです。



